母を偲ぶ

(千葉県医師会雑誌第57巻No9に掲載したものです)

 私の母は6月27日朝、永眠しました。享年78歳。

 前日の朝には、入院先の台湾の病院で弟が母を車椅子に乗せ、院内散歩をしていました。午後になり、急に震えが現れ、呼吸も荒くなり、弟は慌てて私に電話をくれました。持病のある患者さんの急変について、日曜日の当直医はあまり把握できないようでした。血中酸素の飽和度が下がっているため挿管するかどうか国際電話で聞かれました。今まで患者様のご家族によく尋ねていたことが自分自身の身に回ってきました。苦渋の選択でした。家族らと相談の結果本人をこれ以上苦しませない選択をしました。私が27日朝一番の便で帰国しようと空港に向かっている途中、弟から悲報の連絡が入ってきました。その瞬間思わず目が潤んできました。50数年にわたり養育し、教育し、多方面にわたり心配してくれた母の最期に間に合わなかったのは辛かった。電話で弟から母の遺志も聞きました。4年前父が病院でなくなった時、私達は風習に従って故人を自宅に1-2週間安置し、お経を唱えたり、お線香を上げたり、"守霊"したり(徹夜で故人を守る)しました。子孫として最後の親孝行を完全に尽くしてから葬儀を行いました。精神的にも体力的にもかなり負担になりましたが、親のために当時私達は辛いとは思わなかった。母はこの様子を目にして、兄弟と親戚に、万が一には自分を家に連れ帰るより直接お寺で儀式を行いたいと遺言しました。今年5月下旬、私は2週間母に付き添いましたがこの話は聞いていませんでした。50数年間の付き合いで私が母の意向に強く反対する可能性を十分察していたのでしょう。お寺で母を見た時、私はあまりに悲しくて涙が止まりませんでした。昔からずっと家族、子供の事を最優先する母、最期まで自分を犠牲にした母はあまりにもかわいそうでした。

 母は大正15年、台湾の嘉義で生まれました。当時、台湾は日本の植民地でした。中学に進学する時、日本人が優先され、台湾人は極少数の成績の良い子しか進学出来なかった。当時日本人の担任の先生は祖父母を訪問し、母の進学を極力説得しましたが "男尊女卑"の時代で、「女に学問は不要」という思想で母は進学をあきらめました。成人になって、母は銀行に就職し仕事の出来が良く、中卒や高卒の人より重要な仕事を任されていました。当時の母は"銀行の花"と言われたそうです。それゆえ小さい頃の我々は学歴よりも自分自身の気持ちを構えること、責任を持つこと、最善を尽くすこと、一流のレベルを目指すことなど精神面の教育をされました。わんぱくな私は素直に聞いているつもりはなかったが、知らないうちにこの繰り返される言葉が身に染み付き、結局自分の人生に多大なるプラスになったと思います。

 小さい頃私達兄弟は病気がちでした。色々な病気で母に心配をかけ、不眠におちいらせたり、悩ませたりしました。家の倉庫に大きい布袋があって、その中に子供が各病院や診療所から貰って飲んだ後の空の投薬瓶が一杯貯まっていました。この一本一本の投薬瓶に間違いなく母の数え切れない涙と愛情が入っていたでしょう。病院の薬を飲んで効く様子がなければ、母は漢方にも求めました。小さい時から風邪の時に煎じられた苦い漢方薬をよく飲まされました。現在私は患者様に漢方薬を処方していますが母は私の漢方の啓蒙の先生と言ってもよいと思います。

 4、5歳の頃、家族で台北に行った時、私は熱を出しました。心配した母は私を個人病院に連れて行きました。脱水のせいか私はかなり辛そうでした。母はあえて医者に"少し元気になる注射を打ってもらえませんか"と相談した途端、医者はいきなり怒り出して「何が元気だ?田舎者に何が分かるか?医者の診療に口をはさむつもりか...?」急に怒鳴られて、母は熱発のわが子を抱きながら悔しい涙を流して返す言葉がありませんでした。当時母はこの子がもし将来医者になれるならば絶対にこのような医者にさせないと思いました。一時的な悔しい思いだったがまさか私が本当に医者になるとは思わなかったでしょう。それ以後医者に関する話をすると母はよく台北の医者物語を我々に聞かせました。医者なってから毎日母の言葉を守って患者様と接しているつもりですが、これからもっと慎んでやっていきたいと思います。

 小学生時代、私は学級委員長に選ばれました。学級委員長は先生の代わりに教壇で全クラスメートに話をしたり、勉強指導したりしなければなりません。この仕事が嫌で私は何度も親と先生に辞意を示しました。市長選挙のある真冬の夜、母は私を連れて街頭演説を聞きに行きました。最初は政治に興味を持ってない母がなぜ政見を聞きに行くか理解できなかったが、政見を聞いているうちに、母は私に大勢の人の前で話すことを見習って貰いたいのではないかと理解しました。その冬の夜は体が震えるほど寒かったが母から伝わって来た気持ちはポカポカと暖かかった。

 本年5月上旬、母の健康状態が崩れ、入院になりました。楽観できる病状ではなく、その時私は親不孝の重大さをつくづく感じました。振りかえってみると医者になってから20数年親と離れて生活をしておりました。東大在籍時、アメリカの学会に発表に行くたび、母は必ず台湾からお守りを送ってくれ、東京の大雪情報を知るとオーバを送ってくれたりしました。何千キロも離れているが母はいつでも傍にいた感じでした。ついつい自分も母と一緒に生活している錯覚を持ってしまいました。気がつけば、実は自分は親孝行を全然していませんでした。私は事態の厳重さを感じて2週間故郷に帰り、昼夜病院にて母に付き添いました。母はベッドから降りるのが大変なのでよくベッド上で便器を使用しました。私が手伝おうとしても母は了承せず、必ず自分でします。毎日消灯前、必ず便器やテイッシュを自分の届く所に置き、夜間に私を起こしたことは一度もありませんでした。あくる日、シーツに汚れを見つけましたが、いくら言っても寝ているわが子を起こそうとはしませんでした。いくら歳を取っても母の目には私は子供にしか写ってないと分かりました。ある日母が周りの人に前日私が手と足の爪を切ってあげたことを嬉しく話しているのを聞きました。"ママ頑張って下さい、元気でいてくだされば爪をいつでも切ってあげます"と思わず心の中で叫びました。日々主治医の先生と母の病状を検討したり、自分が持ち帰った日本の薬を使ったりして、母の状態が一時安定してきました。「暫く日本に帰りますがまた戻ってきます、ぜひ頑張って下さい 」日本に帰る日、これが親子の最後の会話でした。一ヵ月後母はなくなりました。

 私は母の葬儀をごく親しい親戚と友人にしか知らせませんでした。母の性格として大勢の弔問客や政治家や有名人が来ることを母は喜ぶわけがありません。子供の我々は母を思い真に悲しい涙を流し、今まで我々に尽くしてくれた母の愛を偲んで母に感謝することが母の一番嬉しいことだと思うからです。

8日間の精進料理とお経を唱えただけで自分の親不孝が償えるわけではないが「孝行のしたい時分に親はなし」の悔しさと親の大切さを周りの方々に共感して貰えれば、少しでも母の供養になるかと思います。

 最後、ここでもう一度言わせてください"お母さん、この55年間ありがとうございました"。

 平成17年7月16日(母の3週目の法要後)
花野井クリニック 蔡 榮基